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正願寺の由来

当時の在る金蔵在所は。奥能登にあった千石在所(金蔵、柳田、当目、浦上)の中で、寺を中心として出来た在所であり、七堂阜伽藍八坊が在り、周囲を山林で覆われた盆地に棟を連ね降盛を極めたが、室町時代の兵火に遭い全て消失したと伝えられている。

正願寺の住昔は、天台宗で正願坊と称し、徳成村「ネブノキ」と申す処に草庵を構え、そこから金蔵の「松の越」に移り、天台宗常念仏の庵室を創り、次に「クボンマ」と称する処に一字を造営し、又松原と言う場所に移住して正願寺となった。中興に越前の武士が此処に流浪して、後に出家して正願寺の住職となったこともあった、とも聞かされている。

開祖は了西であるとされているが、元亀〜天正の石山合戦に当り、門徒を召し連れ本願寺へ加勢し、その功により松原山正願寺と改号し今日に至る。当時安置五尊の御裏書のうち慶長六年(1601年)教如より下された顕如上人真影には寺号が見えず、慶長九年(1604年)の宗祖親鸞聖人御影の裏書に初めて正願寺の寺号が認められる。

当時には数々の什宝物があるが特に宝暦二年(1752年)に、時の住職但応が筆をお起し、開祖了西以来の寺伝など記した過去帳があり、以来歴代住職が書き継ぎ現代に至っている。この過去帳は単なる死者の記録に止まらず、折々の気候・作柄・物価から世上の出来事まで書き留め、奥能登の貧しい農民と一蓮托生で時の様子を綴ってあり、当時の社会事情が多く記録されて居り、正願寺の存在意義が伺える。

現在の本堂は大正初期に時の十七代住職徳應が山門建立を訴え門徒も同意して林木の奉加に掛かると、非常に立派な欅材思いのほか寄贈され、これだけの集材が出来たから山門よりも本堂再建だと、徳應住職の強い意志に拠り門徒はもとより近郷の信徒や有志者の絶大な芳志で本堂建立が進み、上棟式執行は大正七年七月で、遷佛式は昭和三年七月、棟梁大工は珠洲宝立の住人安田源次郎で、十六間四尺四面で欅造り瓦葺一重屋根両妻入母屋造り、内陣は七尾中島系左衛門造りで、内陣余間壁画は川崎求可画伯揮毫の蓮画である。この御堂は木造建築としては、能登地域でも最大級で、輪島市内では大きさは勿論のこと、材質においてもこの御堂に勝る建造物は無い。

平成六年に再度山間建立のことが持ち上がり、住職・役員が門徒総会に趣旨を披瀝し、平成六年から集材を始め、本堂の棟梁大工の子孫が経営する安田建設の請負で、平成十年十一月に上棟式を執行し、平成十一年十月二十四日に本山御門首を御迎えして、蓮如上人の五百回御遠忌法要と共に山門落慶法要を執行する運びとなった。

正願寺の主な什宝物

  • 阿弥陀如来木像慶長十六年(1613年)
  • 宗祖親鸞聖人御影慶長九年(1604年)
  • 聖徳太子真影 元和七年(1621年)
  • 顕如上人真影 慶長六年(1601年)
  • 親鸞伝絵 寛永十七年(1640年)
  • 正願寺過去帳

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